中部支部の生い立ちと小野勝次先生
本告光男
はじめに
日本OR学会 名誉会員、中部支部 顧問、の小野勝次先生は8月18日にご逝去されました。享年92才でした。OR学会誌の11月号の冒頭、第2頁に、私の追悼文「小野勝次先生を悼む」と、先生の略歴が掲載されていますので、是非御一読賜りたいと存じます。この中部支部の創設に当たりましては、小野勝次先生が深く関わって下さいました。そして、余所の支部とは少し違った支部として評価されてきました。適当な機会に、発足当時の状況を、私達が元気なうちに、一度、皆さんにお話しておきたいと思っていましたので、「小野先生御逝去のこの機会に、・・・・。」とお願い致しました。
ところが、この7月にメイテツコムの岩田さんが社長に就任されました。これは大変にお目出度いことであります。そのお祝いもあって、岩田さんに講演をお願いしてあると伺いました。そこで、そのお祝いの足を引っ張るようでは不本意でありますし、私は辞退しようかと思いましたが、そこを大野支部長と岩田社長の御好意によりまして、私の講演を割り込ませて下さいました。このような機会をお与え下さいました、お二方及び関係者の皆さんに厚く御礼申し上げる次第で御座います。 また、小野先生の追悼会が10月13日(土)に催されました。御親族からの御指名もありまして、僭越ではありましたが、私が発起人の末席に加わりました。数学の関係者、陸上競技の関係者、ORの関係者など46名、御親族の方を含め参加者約60名の予想以上に賑やかな追悼会でした。OR学会からは、長谷川会長が参加されましてスピーチをして下さいました。なお、中部支部発足当時の月例研究会で活躍されたORオールド・ボーイも4~5名(平石義則、村手光彦、山田英夫、飯田次夫)参加されまして懐かしい一時でもありました。実は、この中部支部が発足したのは昭和36年10月(1961年10月)であります。 つまり、今年は丁度、中部支部の創設40周年に当たります。この時期に、小野先生のお話をするのも何かの因縁かもしれません。さて、これからのお話を
1.組織の発展過程
2.主な活動
3.大學のOR教育
4.企業のOR実践
5.小野先生の思いで
のように進めて参りたいと思います。
1.組織の発展過程 (1)日本OR学会の創生期
OR(Operations Research)は皆さん御承知の通り、第2次世界大戦を通じて、イギリスで生まれて、アメリカで育った、と云われてれています。我が国のORの始まりは、戦後可成り経った1952年(昭和27年)1月にアメリカから渡ってきたと云ってよいと思います。 つまり1951年(昭和26年)7月に「PhilipM.Morse,George E.Kimball:Methods of Operations Research」の発行改訂版がJohn Willey社から出版され、その本が1952年(昭和27年)1月にW.Edward Deming博士から日本科学技術連盟に3冊寄贈されました。これが日本にORが入ってきた始めであった、ということです。その本は 防衛庁陸上幕僚監部多田和夫 氏 始め防衛庁OR班
総理府統計基準部 中原勲平 氏、
等によつて翻訳され、日本語版が「オペレーションズ・リサーチの方法」と云う本として昭和30年 9月に日科技連から出版されました。日科技連は東工大の河田龍夫先生を委員長とする研究委員会を設けて、この本の研究会を発足させました。これが我が国における組織的なOR研究の始まりであります。 (2)任意団体 日本OR学会発足 1957年(昭和32年)6月15日 日本OR学会は、今申し上げた委員会が中心になり、河田研究室で設立の準備を進め、昭和32年 6月15日に会員数305名の任意団体として発足しました。学会の機関誌は2種類でした。「経営科学」=和文の論文誌と会誌を兼ねていました。それと、「Journal of the Operations Research Society of Japan」=英文の論文誌を出していました。
この頃、小野先生は研究室にOR学会から機関誌が送ってくるので、誘われていることを認識はしていたようですが、結局お断りになっていたそうです。一方、中部電力では小生が昭和32年 4月に静岡支店から本店の企画室組織担当に転勤しまして、ORらしき仕事を既に始めていました。
(3)中部支部の発足 1961年(昭和36年)10月昭和36年10月、中部支部の設立総会を栄町の電通ビル4階のホールで開催しました。本部の研究発表会と前後して行いました。当時の会員数は500人位だったと思います。
運営委員
支部長 清水勤二 名古屋工業大学長
副支部長 小野勝次 名古屋大学 理学部 数学科 教授
梅田俊雄、 中部電力 取締役企画室長
西沢 勇、 中日新聞 企画室長
清水 中産連理事長
幹事会
中産連 天野菊夫事務局長
名鉄 村手光彦企画室長
東邦ガス 藤波 健氏
中部電力 本告
だったと思います。
一 般(よく参加された方)
榎本久徳、中村淳一、平石義則、村田秀雄
事務局
事務局は中部産業連盟に引き受けてもらいました.
中部支部の創設については、文部省経由で名古屋工業大学の清水勤二先生(元文部省の大學局長)に働きかけがありました。一方、中部電力の梅田俊雄取締役に国鉄の審議室長横山勝義氏、東工大 松田武彦助教授から働きかけがありました。その経緯には中部電力が、その頃既にORを実践していましたし、私はこれらの方々と面識もありました・・・・・・・・・・・・・
日本生産性本部の「アメリカORの調査団」 昭和34年?が派遣された。
メンバーは松田武彦氏(東京工大助教授)、横山勝義氏(国鉄審議室長)、山口英治氏(信越化学)、梅田俊雄(中部電力取締役企画室長)、・・・・・・・・・・報告書を出さなかった調査団で有名でしたが、なかなか息のあった調査団でした。清水先生は、支部の中身を作る牽引役として、小野先生に参画するように口説かれました。清水先生は、よく「私は専門家ではないから詳しいことは分からないけれど、日本の将来のために、育てなければならない学問だそうだ。」と言っておられました。清水先生の殺し文句は”日本の将来のために、育てなければならない学問”でした。小野先生は「清水さんとは長い付き合いだし、義理もあるし、まあ月に1回位集まって、話を聞く位なら何とかやれるだろう」と云われて、また支部長はいやだ、と云われて、副支部長をお引き受けになりました。それから3年後、昭和39年に、清水先生が亡くなられまして、その後、支部長をお願いしました。その時、こんなことを話されました。産学協同のある会合で清水先生と一緒になられて、その帰りの車の中で清水先生が「小野さん、この地方のORを育ててやってください。」と何かしんみり云われたそうです。そこで、小野先生は清水先生の家の前で、「やあ!、今日は清水さんの遺言を聞いて、お別れだな!」と冗談を云って別れたそうです。それから1週間後に清水先生が急死されました。小野先生は「本当の遺言になってしまつた。もし、これを断ると清水さんが化けてくるかもしれないな!」と何かしんみりしておられました。それから、会長に就任される迄の、7年間(昭和39~46年度)支部長をやって下さいました。
(4)社団法人 日本OR学会として再発足 1972年(昭和47年)5月23日大學でも、特に大学院ですがORを教育するようになり、会員数も2000名を越えましたので、正式に社団法人として登録することになりました。そのために助走期間を設けて、賛助会員・一般会員の増強、知名度向上の運動を展開しました。 1967~68年(昭和42~43年) 土光敏夫会長(東芝社長理事会にもよく出席されました。質素な暮らしぶり、誠実さ、に感銘を覚えました。主として東芝系の会社を賛助会員に勧誘されました。
1969~71年(昭和44~46年)小林宏治 会長(NEC社長)
チッポケな学会で上品なことばかり並べていたら、何れ財政的に潰れてしまいます。「会員数を5000名以上にしないと財政的に成り立ちませんよ!」と督励されました。主としてNEC系の会社を賛助会員に勧誘されました。 このように助走期間には、財界の大物に座って頂きました。その後を受けて、社団法人学会の初代会長には小野勝次先生に座って頂きました。会長の人事は難しかった記憶があります。
(1)なりたい方が何人か居られましたが、あちら建てれば此方が建たず、凝りが 出来ては将来に禍根を残しますし、・・・・・・ (2)それともう一つ、その次の会長の時にIFORSの国際会議を日本で引き受ける事が決まっていましたので、その準備のために1億円程の寄付金を集めなければならない.と云う問題がありました。私は寄付金の問題は別として、静岡大学の学長を任期満了で退任される予定であった、小野先生に白羽の矢をたてました。その読みは(1)一見、ORとは無関係・・・・・・・ORを専門としていない。
(2)数学出身のOR先生は数学の大御所として一目おく!
(3)工学部出身のOR先生は計算機の草分けの先輩として一目おく!小野先生は昭和29年5月、45才の若さで、計算論理の研究で日本学士院賞を受賞されています。
と云う読みでした.この案はOR学会廻りに対しては説得力がありましたが、肝心の小野先生がなかなかウンとは言われませんでした。私の事情説明を先生は何時も聞き置くだけでした。特に、”国際会議の寄付金集めなんて、僕がやるとね、集まるものも集まらなくなるよ!”・・・・・・・・・・・・・・・・・と云っておられました。結局、小林宏治さんを動かして、口説きに成功しました。IFORSの寄付金集めについては、小林さんが、”財界の我々が引き受けるから、小野先生には面倒かけません”と説明されました。その結果、寄付金は乞食をしないで経団連の事務局から大企業に半ば割りあてるようにして集めました・・・・・・・・・・。
会 長 小野勝次先生(名大)、
副会長 近藤次郎先生(東大)、
副会長 横山勝義氏(国鉄)、
副会長 三上 操氏(九大)
その他、理事12名。
私は小野先生の鞄持ちとして46~47年度の無任所理事を担当しました。この法人化を推進するために、当時、東亜燃料(第1回のOR実施賞受賞)に居られた小田部 齋さんが縁の下の煩わしい仕事を精力的にやって下さいました。彼は水面下の功労者でしたが、残念ながら早く亡くなられました。
2.主な活動
(1)賛助会員の増強
(a)企業の勧誘 支部発足当時、清水先生は企業を廻り、広く賛助会員を勧誘されました。その功績は大きかつたと思います。中電の梅田企画室長のお供をして私も何件か廻りました。この地方の賛助会員は、当時、余所の支部に比べてダントツで多かったと思います。殆どこの時期に先輩達が、汗を流して勧誘された成果であります。最近、トヨタ自動車始め退会が増えていると聞きますが、何か一抹の寂しさを感じています。
(b)珍しい賛助会員
賛助会員の名簿に愛知県警察本部の名があります。何時の時期か? 忘れましたが、渡辺さんとおっしゃる県警本部長の時代です。この本部長は良きORの理解者でした。多分、日科技連の「オペレーションズ・リサーチの方法」の研究会に参加しておられたように思います。東新町の中電ビルの近くで、お年寄りが市バスに牽かれる不
幸な事故がありまして、何故かもう覚えていませんが、それが御縁になって渡辺本部長からお呼びがありました。名工大の真鍋先生と会いに行きました。その時、「交通問題にORの知恵は必要と思いますので、学会の中部支部として協力してください ・・・・・・・・・」、と云う御挨拶がありました。それから交通警察のお回りさんが、研究会にも参加するようになりましたし、賛助会員にもなって頂きました。私と真鍋さんと手分けをして、県警本部に講演をしに行った事があります。そして、確か、その年のクリスマスに、本部長名で3階建ての豪華なクリスマス・ケーキが拙宅に届けられました。しかも征服のお巡りさん2人がパトカーを横付けにして、運び込んだそうです。家内がビックリしていました。とても食べ切れませんので御近所に配って廻りました。なかなか粋な本部長さんでした。・・・・・・・・・・こうゆう賛助会員は特に大事にして頂きたいと思います。
(2)月例研究会
中部支部の特色は何と云っても、月例研究会でした。この研究会は、みんな裸で話し合うことをモットーにして、企業秘密などについての仁義は守る事にしていました。研究は、主として企業から今抱えている問題について説明して、皆で質問し意見を言うやりかたでした。時には飛田先生や依田先生、その他の先生の講義もありましたが、これは何処の支部でもやっておられたと思います。この研究会によく参加された方々は、
大學:依田 浩先生、飛田武幸先生、日比野政彦先生、真鍋龍太郎先生。
企業:名鉄、東邦ガス、中部電力、三菱自動車、三菱重工、日本碍子、NTT。
研究会によく出ていたメンバーは、
名鉄 村手、藻利、岩田。東邦ガス 藤波 健氏、中部電力 本告、榎本、田 中、久野。三菱自動車 山田英夫。日本碍子 飯田次生。神鋼電機 平石義則、三菱重工 中村淳一、その他 村田秀雄、と云ったメンバーで、これらの皆さんとは、今でもお付き合いをさせて頂いています。その、討論の中で、「昔からの諺にも、科学的にはウソを云っているのがあるね!気をつけないと!・・・・
・・・・・」と云う話から、・・・・・・
例えば、僕が小学校の1年生か2年生の頃だったと思うけれども、達磨の絵に「七転び八起き」と書いてあって、先生がそれを見ながら、くどくどと説明するもんだから、僕は”達磨は平生寝ているんだ!”と云ってやった。そうしたら酷くしかられたね!また、こんな話もされました。、「僕が小学校の5年生か6年生の頃、歴史の時間だったと思うね、日露戦争の日本海海戦の話だった。先生が、東郷元帥は”百発百中の砲1門は、よく百発一中の砲100門に対する”」と云われた、・・・・・ ・・・と言うもんだから、僕はね「ウソ!、それじゃ勝負にならないょ、1回打ちあったら、お終いじゃないか?」と言ったの・・・・・・・・・そうしたら”軍神の言われたことに、何と云う不謹慎な!”って、散々叱られたことがあったよ!・・・・・・・・・・等。先生は少年時代、既にランチェスターと同じような観察をして居られたようです・・・・・・・・?
(3)OR入門コース
事務局の天野さんから”本部の交付金だけでは完全な赤字になります”と云われまして、PRと金集めのためにOR入門の講習会もやりました。その利益金と支部賛助金で支部の別会計を作り、現在も引き継いでいると思います。この別会計があったからこそ、月例研究会も運営出来たのでありまして、これがなかったら干上がっていたでしょう。しかし、これが本部にバレて、「本部の会計に組み入れるべきである。」と開きなおられて困ったことがあります。小生が、月例研究会を継続するためには、本部の交付近だけではやっていけないことを、説明に参りまして、黙認して貰ったことがあります。OR学会の場合、関東支部が無くて、東京、を始め関東一円は本部直轄になっていますので、本部の人達は支部の運営がどういうものかよく分かっていないようでした。OR入門コースには小野先生がよく聞きに来られました。また、よく質問もされまして私達はタジタジとすることもありました。しかし、説明者の面子を潰すようなことは絶対になさいませんでした。例えば、「僕はね、受講者にとって分かりやすくするための質問をしているのだから・・・・・・・・・・悪く思わないで」といった調子でした。講義の中で、これチョットやばいな? と思うとすかさず質問が飛んできました。
3.大學のOR教育
(1)名古屋大学工学部
電子工学科の宇田川かね久教授、福村晃夫助教授、伊藤紀子助手のグループがORの研究をされ、電気・電子工学の学生に講義もやっておられました。「国沢、宇田川:オペレーションズ・リサーチ入門、広川書店、37年9月15日初版」があります。また、中部生産性本部主催の、宇田川研究室による、一般企業への”OR入門コース”もやっていました。小生は宇田川先生からの依頼で「遮断機の点検周期の問題」等の事例について講義したことがありました。小生の福村先生との御縁はここからだったと思います。宇田川先生は個性豊かな方で、中部支部の活動にも合流するように調整を進めていましたが、若くして急死されました。創生期の関係者から期待されていただけに惜しい先生でした。その後、宇田川先生の研究室が無くなりまして、福村先生は情報処理の方面に移っていきましたし、伊藤さんは中国地方の大學に転出されました。
(2)名古屋大学理学部
数学科 小野勝次教授
ORの教育はやっていませんでした。
(3)名古屋工業大学
依田 浩教授が、統計学の講義の傍らQCやORの講義をやつておられたと思います。研究会にも時折出席されました。
4.企業のOR実践
当時、私は中部電力にいましたので、中部電力のお話で代表させて頂きます。中電は、先ほど申し上げましたように昭和32年 4月からORらしきものを私が始めていました。それは、会社の組織を企画する仕事の一貫として、例えば、水力建設所の要員数を推定する計算式を作ったり、また、それを全社の標準要員算定式に発展させて、全社の要員の膨張をセーヴする仕事など、をやっていました。さらに、私の手法を通産省が電気料金のコストに占める修繕費を査定する方法に取り入れる等、段々とORの仕事の方が本業になっていきました。配電部、工務部などの業務主幹部門からの受注が多くなってきましたので、昭和35年だったと思います、企画室長直属のORグループを組織しまして、小生の他に榎本久徳氏(名大数学34年入社)を常勤で加えて貰いました。戦力も強化され、いろいろな問題を手がけるようになりました。例えば、昭和34年9月には伊勢湾台風が襲来しまして、中部電力も大変な被害を受けました。そこで台風防災についてのORの問題を提案しました。そのために名古屋気象台、気象庁観測部統計課、気象研究所の協力を得ました.小野先生も力を入れて相談にのって下さいました。
(a)台風の被害予報
台風は地震の場合と違って、事前に情報が入ってきますので、それに対する準備が有る程度出来ます。場合によっては被害を減らす事も出来ます。復旧作業を先回りして準備する事も出来ます。しかし、当時、気象庁でも台風の進路、プレッシャー・プロフィールの変化については数値予報は不可能でした。あれから42年経た現在でも成功していません。低気圧の風のモデルだけ作って、被害予報は諦めました。(b)台風防災ゲーム・・・・・台風モデル昭和36年実施。
1)従来の訓練はセレモニー的であって、頭の訓練になっていない!予め決められ たシナリオに沿って動くだけ!
2)「非常事態の組織管理規定」を企画する材料を作る必要があった現行規定の何 処をどのように変えるか?非常時災害時の権限下部委譲をどのように定めるか?(c)電柱の保守基準の見直し
1)電柱取り換え基準の経済的最適化
電気工作物規定との関連で不採用になりました。
2)電柱点検基準の経済的最適化
年間2~3億円の経費節減を実現しました。この仕事は、気象学に関して当 時、気象研究所の高橋浩一郎氏(後に気象庁長官、台風についての国際的な学
者)の、御指導を得ました。
(d)PERTによる火力発電所の点検工期の日程管理昭和39年頃でしたが、6~7億円/年の経費節減が出来たと評価されました。この問題については、他の電力会社も同様の事情でしたので、即採用で、中部に習いましたので、電力9社の合計ではその数倍と評価して好いでしょう。
(e)東海3県の工業配置問題・・・・・・・・・・・・・・・・・中経連
(f)送電系統計画の最適化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・企画室
(g)電力供給予備力の必要量・・・・・・・・・・・・・・・・・・中央協議会
(h)中地域の水力開発計画・・・・・・・・・・・・・・・・・・中地域協議会
(i)ロックフィル.ダムの盛り立てシミュレーション・・・・・・・建設部
(j)資材配給センターの設置について・・・・・・・・・・・・・・資材部
(k)従量電灯需要家のアンペア・ランク別の構成比率の推定・・・・営業部その他、大小60件以上の仕事をやつてきました。やがて、昭和52年にOR学会の「実施賞」が制定されまして、中部電力は昭和54年に、第3回OR学会「実施賞」を受賞しました。「[参考]平成12年 日本ガイシさんが第25回OR学会「実施賞」
を受賞されました。」中部支部のために、おおいに、意を強くしました。名鉄さんも、月例研究会に色々な問題を持ち込んで居られました。その辺のところは後ほど岩田さんからお話があると存じます。
5.小野先生の思い出
(1)研究会では理想的な聞き役
何時も、小野先生一流のチャチャを入れながらの独特の聞き役ぶりでした。先生は時には私達の問題について、その”型”を鏡に映し出す役をして下さいました。また、時には発表者の問題意識を、ひっくり返してしまうこともありました。なお、本部の研究発表会でもよく聞いておられました。若い人の研究には、後から手紙で激励したりされました。貰った方から、”本告さん、名古屋の小野勝次さんてどんな人?”と私も尋られたことがあります。私が”これこれですよ!”と説明しましたら”わぁ!こりゃ光栄だ!家宝にしてとっておこう”とはしゃいでいました。この方にとって大きな励みになったことと思います。支部発足当時の研究発表会は、”ORをやっている同志の語らい”というような雰囲気がありました。さて、小野語録と云いましょうか、先生がよく云われた言葉を紹介しますと(a)科学は万能ではない。ORも然り、問題によつては経験による感の方が余程好い結果 を出す。
(b)問題の研究と手法の研究は車の両輪でなければならない.
(c)「手法の研究は重要な仕事である」これを否定はしない。しかし、・・・・・ ORの手法を知っていれば、何でも解決出来ると思ったら大違いだ。
(d)明日の問題を1ケ月かかって精密に計算しても意味はない。ラフでも好いから与え られた時間での判断をだすこと。
等であります。
(2)”型”への拘り 小野先生は陸上競技に科学を取り入れた方として、陸上競技の世界からも感謝されていますし、そう云う著書もあります。先生は針金で、競技のある決定的瞬間の骨組みを作って、それに粘土で肉付けをした人形をよく作っておられました。そして間接の角度を変えたり、力学の計算をされたり、・・・・・・ハードル、走り高跳び、競歩、・・・・・・・・・・、総て合理的な型があるものだとおっしゃいました。それと同じように、問題のモデルの”型”に拘りました。問題のカラクリを観察して、そ
の”型”を取りだして、モデル化する仕事は、ラッキーな場合は、LPや待ち行列のような”標準モデルの型”に到達(25%)します。しかし、多くはその問題についての固有の”個別モデルの型”を探らなければなりません。また、”標準モデルの型”に嵌っても、その前後で”固有モデル”を貼り付けて、現実に近づける場合が大部分です。先生はその”固有モデル”について現実をピタリと表現する”型”について拘りました。・・・・・・・・・・・同じ型の問題が沢山出てくれば、それが手法になっていくわけです。その観察は手法の研究者にとっても実は大事なことであります。
(3)コンピュータについての御造詣
(a)日本学士院賞(昭和29年 5月、)45才で受賞されました。テーマは確か、「電気統計機の計算論理・・・・・・・・ ・」、忘れましたが、2進法の計算論理に関するもので、あったと聞いています。フォン・ノイマンと同じ頃に、同じような研究をやっておられたそうです。
(b)電子回路の信頼性についての警告
電子回路で有名な東大の山下英男先生と研究をされたことがあります。電子回路の信頼性についてもよくご存じでした。シミュレーションの計算など、大規模な計算の、結果が正しいことをどのようにして確かめるのか?等、われわれはよくからかわれました。小野先生のコンピュータについての語録は
1)コンピュータのこけおどしに乗るな!
コンピュータで計算したから信用出来る、と思わせる・・・・・ウソ
2)ハードウェアーを信用するな!
電子回路だって絶対なんてことはありえない
3)ソロバンを2人の丁稚にやらせる・・・・・・・2重回路の思想。 人命にかかるような計算は、2人の丁稚にやらせる!等でした。私は小野先生のこれらの警告によって、助かった経験があります。中地域(関西、中部、北陸、電発)の電力広域運営のために、中地域協議会があります。中部電力がその当番会社の時に、水力の長期開発計画について私達が参画したことがあります。この問題はDPの”型”にモデル化しました。昭和37年頃でしょうか?もう時効でしょう・・・・・・・・・・・・・モデル化と計算の粗筋は私と榎本さんの合作で、プログラムは榎本さんが作りました。当時、日本には1台しかなかった三菱原子力のIBM7090を電力中央研究所(1時間/週)経由で使用しました。ところが、計算結果は何回やり直しても、乱数表を引いているような数列が出てきまして、大変困ったことがあります。毎日ソフトウェアを疑って、書き変えては試行錯誤を繰り返して、何日か経ちました。もう限界であると諦めて、中地域の事務局に「私達の手には負えません」と謝りました。しかし、私は白旗を担いで帰るのが悔しくて、考えているうちに小野先生の警告を思い出しました。
1)コンピュータのこけおどしに乗るな!
世界の7090か ! 天下の7090か?
2)ハードウェアを信用するな!
トランジスタの品質など・・・・・・絶対とは言えない
3)2人の丁稚の話
パリティ・チェックはやっているだろうが、何処にどのように入れているか?そこで数日間に実行した計算のジャーナルを集めて、共通している事柄を考えてみました。
(a)何れも計算結果は乱数表を引いているみたい
(b)何れも深夜に実行している
(c)メインテナンスは朝の運転開始の直前にやっている
また、トランジスタには、温度特性によるバラツキがありますが、何時もヒートした状態の時に計算をやつていることに気が付きました。そこで、三菱原子力の運転の責任者に、私の意見を説明して「明日、私は白旗を担いで帰るけれども、1ケースでいいから、明日の朝、一番で実行して貰えませんか?」とお願いしました。ところが、”天下の7090に限って、そんなことはあり得ない!”と云って拒否されました。やむなく、IBMに手を回して、朝のメインテナンスの中で、三菱に受け渡す前に、入れて貰うように頼みました。IBMの連中は、三菱原子力に見つからないようにやってくれました。それらしい計算結果が出ました。全ケースご正解でした。私は早速、中地域の事務局に計算結果を報告して、降伏を撤回してもらいました・・・・・・・・・・三菱原子力の運転責任者には、「私が疑った通りでした。三菱原子力さんはどんな計算をおやりになっているのか知りませんが、これで日本の原子力は大丈夫なんでしょうかね! 」と捨てぜりふを残して、意気揚々と帰りました。この後、
三菱原子力は大変だったそうです。さもありなん!!(この件については、面白い裏話がいろいろありますが、本題からは外れますので割愛致します)また、中地域協議会の作業班は、この仕事の報告書に 「この計算にはIBM7090を使用した。」と一行書きたい、と主張しました。・・・・・・・・・・・・私は「よせ!!」と云いましたが・・・・・・・・・印刷された報告書には書いてありました。全くお笑いぐさです!!小野先生にも、この件は詳しく報告しました。先生はニコニコ笑って「良く気が付いたね!」と言って、喜んで下さいました。
むすび
私達は、小野勝次先生からこのように目に見えない大切なものを沢山頂いてきました。また、冒頭に申し上げましたように、今年は中部支部の発足40周年に当たります。今日は、これらの小野勝次先生から頂いたものを、また、支部発足当時の隠れた話題等を皆さんに引き継ぐつもりで講演をさせて頂きました。十分に意を尽くせたかどうか、それは自信がありません。しかし、昔から温故知新と云われています。これからの学会の運営に、また皆さんのお仕事に、参考にして頂ければ幸いであります。
御静聴感謝致します。長時間、有り難う御座いました。